2007年8月9日木曜日

被爆のマリア像


史料によれば、広島に原爆投下がおこなわれた1945年8月6日二つめの原爆がテニアン島で組み立てられた。それは、8日、アメリカ陸軍在グアム第20航空軍司令部野戦命令17号によって、8月9日投下、第1目標は小倉、第2目標を長崎と決まった。同日、日ソ不可侵条約は破棄され、ソ満国境が侵された(ナガサキが東西冷戦の犠牲になったとの説の所以ともいえる)。 8月9日9時44分、投下機B29ボックス・カーは第1目標である小倉上空に達したが、目視による投下目標確認失敗を3回繰り返すうち、天候が悪化、対空砲火が激しくなり、迎撃機の発進も確認された為、投下目標を変更し、、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。午前10時50分頃、長崎上空に接近するも、そこは厚い雲で覆われていた。目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、雲の切れ間から長崎市街が一瞬眼下に覗いた。高度9000メートルからMk-3核爆弾ファットマンは投下され、1945年8月9日午前11時2分、長崎市街中心部から約3km離れた別荘のテニスコート上空、高度503mプラスマイナス10メートルで炸裂した(松山町171番地)。
投下機を含む二機のB29は長崎市上空を旋回、被害状況を確認し、テニアン基地に攻撃報告を送信した。 
 長崎を090158Zに有視界で爆撃した。戦闘機の迎撃も、対空砲火もなし。結果は「技術的には成功」といえるが、他の要素のため、次の行動に移る前に、会議が必要である。外見上の効果は広島と同じ。

長崎原爆はプルトニウム239を使用する原子爆弾で、TN火薬22キロトン相当、広島原爆の1.5倍の威力であった。
当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約14万8千人が死傷、建物の約36%が全焼または全半壊したという。 
 東洋一の壮大さを誇った浦上天主堂も無惨に崩れ落ち、被曝したマリア像が、深い悲しみと怒りを伝えることとなった。その表情を前にして、何を語れるだろうか。

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